マンガ・ギリシャ神話 里中満智子

子供に与える本を物色していたら、こんな面白そうな本を見つけました。全八巻で完結しております。安心して手を出せますね。

オリュンポスの神々―マンガ・ギリシア神話〈1〉 (中公文庫)マンガギリシア神話 (2) (中公文庫)マンガギリシア神話 (3) (中公文庫)マンガギリシア神話 (4) 悲劇の王オイディプス (中公文庫)マンガ ギリシア神話〈5〉英雄ヘラクレス (中公文庫)マンガ ギリシア神話〈6〉激情の王女メデイア (中公文庫)トロイの木馬―マンガ・ギリシア神話〈7〉 (中公文庫)オデュッセウスの航海―マンガ・ギリシア神話〈8〉 (中公文庫)

ギリシャ神話は漫画やゲームだけでなく、色々なお話で引用されますが、学校で習うわけではないので、何らかの形で原典を知っておいて損はないと思います。知っているつもりでも案外知らないもので、実際読んでみて初めて知ったエピソードはたくさんありました。子供には難しい部分もありますが、漫画という読みやすい形になっているので、大きくなってからも、暇な時に読み返しやすいので、徐々に理解は深まっていくかと思います。

ということで、まずは第一巻と第二巻を購入して様子見です。面白かったといえば、折を見て続きを購入することになるでしょう。

今回は、僕の興味の範囲だったので、子供から奪い取って読んでみました。神話は淡々としているので、途中で退屈になってしまうものですが、神々の個性を上手に立ててメリハリのあるストーリーが展開されています。

最初は、もうちょっと真面目に感想文を書くつもりだったのですが、読後の反芻で、これはとんでもない(けしからん)物語だという気持ちがまとまってきたので、まともな解説をする気は、すっかりなくなってしまいました。もうね、これは古代のエロゲですよ。男の願望と妄想が煮詰まった夢物語ですよ。

目障りなオヤジをぶっ潰して兄貴達を出しぬいてトップの座に君臨すると、権力を利用してあちこちの女に手を出して孕ませ、その後はほったらかして働きもせず、 「俺の仕事は神々の繁栄なのだから、一族を増やす子作りこそ俺の義務」と言ってはばからない。近親相姦あり、獣姦あり…。


これはもうエロゲ認定するしかないでしょう。およそ男が喜びそうな話はすべて盛り込まれている勢いです。このコミックは子供向けなので、その辺はぼかして書いてありますが、おっさん向けバージョンで描写すればじゅうぶん使い物になりますよね。僕が知らないだけで、もうすでにエロ漫画化あるいはエロゲー化されてるんでしょうかね?

マンガギリシア神話 全8巻

マンガギリシア神話 全8巻

平安京以前の京都は、どんな様子だったの?

奈良は盆地で稲作がやりやすかった上に、権力が集中しやすかったと考えたまではよかったのですが、よく似た条件の京都でなぜ王権が誕生しなかったのか説明がつかないことに気がつきました。まさか平安京遷都まで人が住んでいなかったわけではあるまい。おそらくは強大な部族がいくつもできていたことでしょう。どこかの時期で大和に屈曲したはずなのですが、出雲のようには取り上げられないところを見ると、うまいこと融和していたのでしょうか。歴史の授業では平安京以前の京都については習わなかったような気がしますが…自分が聞いていなかっただけ…なのか… ?なにしろ十九点だからな(笑)

どうやら、山城国風土記に記されているらしい。ネットではこの辺がとっかかりになりますかね?まぁ、時間があれば深めていくことにします。

奈良盆地が日本の首都…だと…?

奈良盆地といえば21世紀になっても割と田舎…というと失礼か…交通の便がイマイチで発展性にかける土地柄ですよね。

ここが日本の首都だったとは直感的には理解できないなぁ…なんで当時の人はここを首都にしたのだろう。

などと疑問に感じていましたが、交通の便が悪い=天然の要崖だったわけですね。周囲を山に囲まれているので外部から敵が襲ってこない代わりに逃げ場もない環境だったわけです。つまり盆地の内部で激しい争いが繰り返されることで次第に権力が一つの部族に集中していき、奈良盆地が一つにまとまった時点で外部では太刀打ちできないほどの強力な政権が誕生していたということでしょう。

おそらく弥生時代後期にはオーソドックスな里山の村が盆地内にいくつもできていたでしょう。里山の農村は山をバックに平地に向かって村が拡張されていきます。盆地は周囲を山に囲まれていますから、これらの山に張り付くように、リング状にムラが発展していて、それが次第に川下(盆地の中央)に向かって規模を拡大していったと考えられます。この時は、まだ平城京のあった周辺は水の確保の困難さから使われていなかったことでしょう。強いて言うなら盆地の部族同士が交易をするために市が設けられたり、サミットをするために宿舎のようなものが建築されていたかもしれません。

さらに時は流れると、盆地内での拡張が難しくなってきて争いが起き始めます。ここでは安定的に水が供給され耕作地を拡張しやすい部族が勝利を収めていたことでしょう。最終的には有力な部族がいくつか残り、それらの部族の間で政治家(農業に従事しなくても生活できる支配階級)が現れたので、彼らの交渉事がはかどるように、中央に首都が作られたのでしょう。

ここまでくれば奈良盆地は天然の要崖となります。峠を遮断すれば簡単には進入できません。防衛にかかる労力が少ない分、安心して農業に打ち込めます。瀬戸内海の沿岸で魚を取りながら生活する部族はこれに対抗するのは難しかったでしょうね。

まあ、この辺は想像に過ぎないのですが… 。もしこういう流れなら「平城京は農地として使い道のない空き地を活用した」のかもしれませんね。

ところで、奈良盆地には海がありません。という事は塩も手に入らないはずですね。海に入れるためのルートを確保するのは最重要課題だったのではないでしょうか。熊野や伊勢を重要視したのは、そういった理由からでしょうか?

儒教の世襲

儒教では、人生でもっとも大切なイベントをお葬式としています。最期の集大成ってやつですね。だから、どれだけ立派なお葬式を挙げてもらうかでその人の生前の評価が決まります。

まぁそういうことですから、残された遺族にとっても、どれだけ盛大な式を挙げるかが孝行息子として名を上げるチャンスになるわけですね。亡くなったお父様は立派な方だったはずですから、父を見送る参列者が少ないようでは様になりません。ですから、サクラを雇って大げさに泣いてもらったりするんですね。この辺のところは墨子を読めば、儒教徒が孝行心につけ込んでどれだけあくどい手口で商売をしていたかが分かります。儒教に入信すればこうやってイベントをコンサルティングしてくれて就職や出世の後押しをしてくれる。時代は下って戦国時代に入る頃には腐臭が漂い始め、そういうビジネスライクな側面も儒教にはありました。

まぁビジネスとして捉えるか、信仰として捉えるか、は別としてお葬式を上手に演出できるかが、世間の評判のバロメーターである事は間違いなかったようです。その要素の中でも最も重要な点は「喪」です。

儒教では父を亡くした時の喪の期間は3年と決まっています。この3年の間、息子は質素な白い服を一枚着るだけで、掘っ建て小屋に閉じこもり、食事は薄いおかゆだけを摂ると決められています。あまりにハードな修行なので喪が明ける頃には一人では満足に立ち上がれないほど痩せ細り、人に肩を借りてやっと歩けるほど衰弱します。

父の死を悼んでこれくらいできる人こそが跡取りにふさわしい。ましてや王位を継ぐ立場であれば、それくらいの人格者であってほしい。

そう、この儀式、元はと言えば王子が王位を継ぐための試験として始まったものです。基本的には長男から順番に後を継いでいきますが、この適性試験に合格しない限り、世論は即位を認めてくれません。もし長男が病弱あるいは軟弱だった場合。体力と気力を持たない者は、三年間の喪に耐えられません。心が弱くてだらしない者はこんな面倒な試練には挑戦したがりません。こうやって本気で王位を継承する意思を持たない者をふるいにかけるために、こんなに派手な喪があるわけです。

さて、儒教には「父が亡くなっても三年間は父のやり方を変えるな」と言う教えがあります。まあ喪中は政治のことは忘れて喪に集中して、国家の切り盛りは父の腹心たちに任せろといったところでしょうか。この辺、よくできてるなと感心します。新しく即位した王子の周りにはすでに彼の腹心がいます。彼らは王子が即位する将来性を見込んで人生をかけて注力しているので、王になった暁には相応のポストを要求します。もちろん王子も親政(自分の政治)がしたいので、自分の身の回りにいる人材を重要ポストにつけようとします。そんな時に親父が残した臣下が幅をきかせていると目障りで仕方ありません。しかし、彼らを無理に更迭しようとすると反乱を起こされたり、国ごと外国に売り渡されたり、手痛いしっぺ返しを喰らいます。なにしろ彼らは経験豊富な上、十分な人脈を持っています。彼らを上手に引退させないと、直ちに深刻な世代間闘争が始まり、国力を大いに落とすことになるでしょう。 3年という期間は緩やかに世代交代を行うための程良い冷却期間かと思われます。三年間の猶予を与えるので、身の振り方を考えておきなさい、といったところでしょうか。

権力関係の対立構造は、時代が変わっても変化することはありません。最高権力者がその権力を世襲させようとしている場合、王子の即位後三年間は大粛清が起きる畏れが非常に高いです。特に親父の在位期間が長く、彼の腹心に権力が集中していて、王子は若く、長男ではないケースは非常に不安定で危険な状態にあると考えられます。この条件にぴったり当てはまるのが北朝鮮なんですよね… 。

鎌倉の地理

なんで源頼朝は鎌倉を武士政権の中心地に据えたのだろう? 。

日本史に対して苦手意識だけが先行していた頃からの疑問だったの。西からの侵攻に備えて箱根の山に部隊をいち早く展開できて、なおかつ関東一円に睨みが効く位置だったのかな?と想像していたが、何の事は無い。源氏ゆかりの地が鎌倉だったという話だった。

どうやら鎌倉の街は地形的に防衛しやすいらしい。三方を山で囲まれて市街地の侵入ルートはいくつかの街道に限られていて、正面の海は遠浅で大型の軍艦は直接海岸に乗り入れることができなかったらしい。

そういえば鎌倉の街の作り方は完全な里山構造ですね。背後に山を背負って山の麓に鶴岡八幡宮があり、海に向かってまっすぐメインストリートが伸びていて、街が広がっています。

農民と非人

与えられた土地を耕して手入れをして収穫するのが農民で、それ以外を非人と分けたのが身分制度の始まりでした。つまり、非人はもともと差別の対象ではなかったのです。なぜそう言えるか?

農業は特別な才能を持たなくても根気さえ続けば、天災にでも見舞われない限り確実に収穫できます(食っていけます)が、収穫できる量はほとんど決まっているので、一枚あたりの田んぼは養える人数も決まっています。これは農業の技術革新がない限り、今後10年あるいは数十年、増収の見込みがないことを意味します。大量生産、大量消費の工業社会とは異なって、とても緩やかな成長を続けるのが農業です。となると、自分の老後までの人生計画が比較的正確に逆算できることになります。

現代でも自分たちの収入に合わせて家族計画をしますが、昔だって同じように、家族計画はしました。しかし、現代のように、医療や衛生環境が整っていないので、計画通りにはいきません。特に乳幼児の致死率は非常に高かったのでとりあえず産んでみて育てます(というか避妊技術もないし、安全な中絶もできないので、それしか方法がない) 。農家にとって最も恐ろしい事は、跡取りが絶えることです。当たり前のことですが、この時代に老齢年金も介護保険制度もありません。跡取りがいなければ、年老いた親の世話をしてくれる人はいないですし、財産も召し上げられてしまいます。財産に余裕がある限り、多めに育てておいて損はありません。

ただし、家が所有する田んぼから収穫できる米はほぼ一定なので、家を拡張することはできません。つまり、家族の人数が常に同じになるように、現状維持を続けていかなければなりません。二人の子供をもうけ、一人を跡取りにして嫁を迎え、もう一人を他所の家にやれば、現状維持は可能です。これで跡取りに孫が生まれ、次の世代の目処がつけば一安心。この辺で寿命が来るのが理想的な人生でしょう。

これは皮算用なので、実際の人生をこの通りに乗り切るのは難しいです。人の生死を人間がコントロールすることは不可能ですから、うっかり作りすぎてしまったり、不慮の事故で亡くしてしまったり、様々なリスクがつきまといます。特に危険なのがギリギリの人数しか用意していないのに、突然亡くなってしまうことです。そこから慌てて子作りしても20年のギャップは埋まりません。足りないよりは余った方がいいので、可能な限り多めに子供を残します。

このように親は保険をかけて多めに子供を育てますが、それが子供にとっての幸せとは限りません。家を現状維持で保つための二人の子供までは農村で暮らしていけますが、三人目の子供からは農村では生きて行くことができません。なぜなら、彼らが所帯を持って子供を養うと、確実に人口が増加してしまうので、家の所得(一定の面積の田んぼから収穫できる米)だけでは生計を維持していけなくなるからです。

こうやって余ってしまった子供は運良く農村にとどまることができても結婚は許されず、兄の家で一生下働き(冷や飯ぐらいの三男坊? )することになります。それすら叶わない、あるいはそれを許容できない者は村を出ることになります。こういう不幸なはみ出し者は、世の中が急速に発展した時ほど多く生み出されます。親の世代は多くの余剰を生み出しても、それが次世代まで続くわけではないからです。皮肉なことに、社会は安定するほど不安定になるのです。

田んぼで農業をしない者は非人である。彼らは卑しい身分である。

このように蔑視しされる時代はあったかもしれないですが、被差別民とは悪くも卑しくもなく、ただ農村からこぼれてしまった人となります。

こうやって村を出された若者が、何の後ろ盾のないまま街に出ても、そこは冷たい実力社会ですから激しい競争にさらされます。
こうやって行き場を失った人たちが命をかけて競争するのが都市です。命がかかっているのですから、都市が生み出す文化が華やかなのは当然でしょう。そこでしたたかに生き残っている人たちが魅力的であるのも当然でしょう。この花の蜜に吸い寄せられて農村を捨てて都会に出る若者もいたことでしょう。こうやって甘い匂いで人を集めて競争させて淘汰させるのが都市です。

身勝手な理屈で人を捨ててしまうのが農村の恐ろしさで、容赦なくふるいにかけて人を淘汰するのが都会の恐ろしさ、と言うことになるでしょうか。

歴史人口学で見た日本 (文春新書)

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人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)

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日本の身分制度

東アジアの身分制度管仲によって士農工商に分けられ、その後、春秋戦国時代の500年ほどの期間をかけて試行錯誤しながら発展していき、秦によって律令制度が確立し、漢によってその習慣が民間にまで浸透したのでした。その律令制度は遣唐使によって日本に持ち込まれました。

身分制度の歴史


律令の中に組み込まれた身分制度を日本に持ち帰った遣唐使ですが、当時の日本には貨幣の概念が浸透しておらず、商人はいませんでした。また、専門的知識を要する職業も姓(かばね)が請け負ってきたので、職人という職能集団はいませんでした。つまり、身分制度士農工商といった明確な分割ができなかったのです。

そこで農民と非農民に分けて後者を非人と呼びました。「人」とは律令を理解して、その仕組みに参加(戸籍登録)し、朝廷から田を預かって納税する人のことをいい、非人とはそこに参加しない人のことでした。

ここで言う農民とは我々が指す百姓とは少し意味合いが違って、純粋に稲作を行う人たちのことをいいます。細かい定義は正直僕にもわかりませんが、大雑把に言えば「収穫物を手塩にかけて育てて生産する人」を農民と言うようです。例えばきこりなどは農民ではありません。彼らは山に生えている木を切り倒して持ってくるだけなので、それを人の手によって生産しているわけではありません。漁師なども同じく農民ではありません。 彼らの生産物は手をかけて育てたものではなく、自然が勝手に育んだ獲物なので苦労などしていない、といった考え方のようです。
基本的には土地に縛られたまま苦労を重ねて収穫する人が国民であって、自由に移動したり、公共物を取ってきて加工するような人は非国民だと言うことです。もしかしたら縄文文化を捨てきれず、狩猟採取をやめない人たちのことを想定していたのかもしれません。

時は降って鎌倉時代に入ると、武士が権力を握って天皇家の力は失墜します。このとき武士が天皇に要求したのは田んぼに対する徴税権でした。これまで収穫されたコメは天皇を頂点とする朝廷のものでしたが、今後は武士が税を管理することになったのです。これで困ったのが天皇でした。このままではまったく食えなくなってしまいます。そこで目をつけたのが、非人たちです。田んぼからの税収を失っても、まだ山林・海・川・町・道路の徴税権を失ったわけではありません。商人や職人などの町民と木こりや漁師、果ては行商人や山伏・極道・前科者・遊女まで農作業の社会からはみ出したあらゆる人たちに支えてもらうことにしました。何しろ京都は巨大な街です。灯台もと暗し。近所にこんな心強い仲間たちがいるとは気づきませんでした。


そこに現れたのが後醍醐天皇です。彼は鎌倉幕府がもたついているのを見て、これはチャンスとばかりに非人たちに呼びかけて勝負に打って出ます。その試みは失敗してしまうものの、後醍醐が起こした波は武士たちを大きくゆり動かして仲間割れを誘って、鎌倉幕府が倒れてしまいます。何と言う泥仕合

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

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そういった経緯で非人たちが手を組むと馬鹿にできない力を発揮すると知った武士(徳川)は彼らを工商と穢多非人に分割して勢力を割いたと言うわけです。途中で身分制度の区分が欠落してしまうけど、長い時間を経由して元通りの士農工商になったのは興味深いですね。これは古文書を読み漁って勉強したのか、それとも人類の営みに共通するものがあったのか。定期的に中国から輸入していたんでしょうかね?

中国での思想はともかく、日本に入ってきたときに階層の欠落とともに差別意識も丸められていたので、 (日本では)根強い差別意識を持って身分制度が始まったとは言えないようです。次回は身分制度の歴史農民が非人を生み出す構造]について書きたいと思います。



なんか途中で時の流れが高速進行した気がするけど…

お金は汚いとか、額に汗をしないのは労働ではないとか、そういった古臭い考えはこのような身分制度が発生源かと思われます。現代社会も社畜とかノマドワーカーとか海外脱出とか、まぁその辺のキーワードを拾ってくると昔と大差ないなぁと思います。暇な人は現代社会に当てはめて考えてみると面白いかもしれません。