平安末期の農業革命

事の発端

日本史嫌いを克服するために鎌倉期の本を2冊読みました。どちらも小学生から中学生向けの簡単な本です。その中に引っかかることが書いてありました。

平安末期から鎌倉時代にかけて、人々の宗教観に変化が起こり、これまでタブーとされてきた下肥(人糞)の利用が受け入れられていった。これによって、農業の生産性は飛躍的に向上し、人々の生活も安定した。

肥をまけば生産量が上がるのは農業に従事していればすぐわかることなので、太古の時代からとっくに取り入れられているものかと想像していましたが、案外遅かったのですね。どちらの本にも同じことが書いてあるので、重要な事柄であることと、価値観が変化した理由がわからない事は確かなのでしょう。いずれにせよ原因が分からないというのは妄想力を発揮するにはうってつけの題材です。わからない部分を想像して「きっとこうだったに違いない!」と決め付けることができるのが、歴史好事家の醍醐味です。これが学者であれば、それを証明するために資料にあたらなければなりませんが、ただの好事家なら好きに放談できますね。

調べてみる

人糞を肥料にする農法は世界的にも稀らしいです。これが起きたのは日本くらいなもんで、グローバルスタンダードでは動物の糞を使うことはあっても人糞はないとの事。中国でも人糞を屎、家畜の糞を糞として漢字を区別したようです。自分たちが出したUNKOを吸収して育った農作物を自分たちの口に入れるなんて、想像しただけでも ゲェェェってなる感じでしょうか。 大陸から渡来してきた弥生人も神話レベルで肥の投入を禁止されていたのでしょう。なるほど、大陸には農耕だけでなく、牧畜文化があります。このような社会では農耕と牧畜を組み合わせて二つの土地を交互に入れ替えて地力を落とさないようにしますね。十分なスペースさえあれば土に返った肥料で農業ができるので、わざわざ生々しい排泄物を扱わなくても済みます。しかし、日本は気候風土が牧畜には向いておらず、牧畜文化を持たなかったので、動物の糞は入手するのが難しかったのですね。ないものを使う事はできませんし、収穫量が飛躍的に伸びるからといって、こんなタブーをわざわざ犯したいとは思いません。

大胆に推測

では、なぜ日本人がそんな心理的抵抗の高い下肥の利用に踏み切ったのでしょう。ここで思い切った推測をしてみたいと思います。

東日本の武士団が西日本の朝廷に負けたくなかったからではないか。

話が飛躍してますね。少しずつ話を近づけていきたいと思いますが、まず西日本と東日本はとても仲が悪いです。この頃はまだ、関東・東北は縄文文化、それ以外は弥生文化と文化に断絶がありました。その辺の事情は大和王朝と関東縄文人にも書いたのですが、わずかな風土の違いから弥生文化が浸透しきれず、そこから制度的な不公平が生まれていたからですね。ということで「朝廷から独立できるならUNKOだって撒いてやるわ」といった具合ではないでしょうか。

いやいや、話はまだまだ飛躍してますね。もうちょい事情を積み上げたいと思います。弥生人が渡来して来たとき、日本の風土は牧畜に合わなかったので、彼らは牧畜を諦めました。また、人糞を利用することも許されていないので、肥料の利用そのものを諦めました。そして、その農法をそのまま縄文人に伝授しました。縄文人はそれまでに牧畜も農耕も経験していないので、農業とはそういうものだと頭から信じ込んで、肥料というものを思いつく機会がなかったのです。それと同時にタブーも持ち合わせていなかったので、常識にとらわれない挑戦をすることが可能だったのです。

だいぶ話が繋がってきました。下肥農法を始めたのは、これまで肥料という存在に気づかずに農業してきた縄文文化系の関東人だと言うことです。「俺たち、すげーことに気がついたぜ」と言いながら満面の笑顔で人糞を田んぼに撒き散らしている彼らを見て「気色悪いことやってるなぁ。あいつら頭おかしいし」と横目で見ていた弥生人。しかし、それが目覚しい効果(飛躍的な生産量の増加と、生活の安定による人口増加)を上げるので、関東を統括する武士たちは「これは使える」とばかりに力を入れます。

下肥の導入は、単位面積当たりの生産量を上げるだけではありませんでした。それまでの田んぼは日本の原点にあるように、里山に依存していました。この方法は、導入コストは安いのですが、山からのわき水下流に行くほど水質は悪くなり、収穫量も下がります。村がこじんまりしていれば湧き水だけで充分なのですが、村が発展してきて規模を拡大したい時、どうしてもどこかで頭打ちになるのです。この時期にはある程度は土木技術が発達してきて、比較的平野に近い土地まで開拓することは可能でした。しかし肥料の問題で開墾できるはずの土地に手を出すことができません。その限界の壁を打ち破った農法が下肥だったというわけです(断定) 。肥を投入することで、山の滋養が届かない平野部でも連作による収穫量の悪化を心配することもなく開拓できる。平野が続く限り拡張していける。これまでの停滞を一気に吹き飛ばすような大発見です。

天のいたずらでしょうか、ちょうどその時期に、貨幣経済が受け入れられて積極的に商取引が行われるようになったのですね。それまでは村という生活単位ですべて閉じていて、村に必要なものは全て自分たちで生産して賄うと言う考えでした。自給自足なので、どれだけ農作業に勤しんで収穫量を増やしても余ったものは大して役に立ちません。しかし、交通網が実用化のレベルに達してきて、近隣の村との交流が可能になると、余ったものを売ったり、足りないものを買ったりすることが出来るようになります。これまで使い道がなかった余剰収穫物を商品として利用できるのです。つまり、たくさん作るほど儲かるのです。こういったことから、農業の得意な村は農業に打ち込み、商業の得意な村は都市化することができたわけです。最初は「常識を知らない馬鹿のやること」と横目で見ていた弥生系日本人たちも、全国的に共通する行き詰まりを解決できる農法であることに気づいて、しだいに興味を持つようになってきます。

民意の後押しで革命

さて、こういった時、肥を使う農法を朝廷は禁止して武士は推進するという対立構造も生まれました。民衆からの視線は「時代の流れを読めずに貧困を放置する頭の固い守旧派」と「旧習を打ち壊して利益をもたらす改革派」に見えたので、人々の心は次第に朝廷から離れていきました。鎌倉武士の自由奔放な農法と、それに伴う画期的なまでの収穫量の増加をみれば、朝廷から離脱あるいは両面外交で武士政権と修好を通じようとする西日本の有力者もいたことでしょう。なにしろ収穫量は倍増するのですから、たとえ両者に納税しても損する事はないのです。こうやって源氏は農業革命どころか本物の革命を成し遂げたのです。鎌倉幕府の成立です。

タブーを壊せず下肥の受け入れが遅れた西日本見て、朝廷にとどめを刺すべく頼朝の放った次の矢は「二毛作」でした。稲の収穫が終わった後の土地で冬野菜を栽培すれば収穫量は倍増です。この農法は肥料の投入なしでは土地がどんどんやせ衰えてしまいます。下肥の導入を見合わせているようでは、絶対に真似できません。

結論

教科書的には「辺境で起こる反乱を武力で鎮圧できた武士が次第に力を持つようになり、やがては権勢すら天皇をしのぐほどになった」という歴史観が正解なのでしょうが、 「チャレンジングな農業改革が国を揺るがすインパクトを生じて勢力地図すら書き換えた」という物語の方がずっと面白いんじゃございませんか?