なぜアンパンマンの友達は愛と勇気だけなのか?

アンパンマンの主題歌「アンパンマンのマーチ」には「愛と勇気だけが友達さ」のような歌詞があります。
この歌詞に対しては各種方面からあらゆるツッコミが入っています。この理由の解明に挑戦した人もたくさんいるでしょう。あるいは作者自身が主質問に対して答えているかもしれません。今回はこの問いについて、僕なりに挑戦してみたいと思います。

僕は古代中国史を守備範囲とするので、今回は儒教的アプローチで挑戦したいと思います。なぜ儒教的アプローチかといいますと、儒教とは「正義とは何か」を突き詰めた哲学だからです。アンパンマンは正義のヒーローなのですから、正義を突き詰めなければなりません。

儒教がたどり着いた究極の正義とは「思いやり」です。この思いやりを儒教では「仁」といいます。儒教の仁こそが、アンパンマンの愛に最も近い(仁では子供に伝わりにくいから置き換えた)と仮定したわけです。ここから話が始まります。

まず仁という文字について説明しましょう。
仁という文字は座った人のお尻の下に敷物が2枚敷いてある絵を文字にしたものです。

なぜ敷物が2枚あるのか?相手をいたわる気持ちから自分の敷物を差し出したのです。寒そうにしている人を見て何とかしてあげたいという気持ちが思いやりです。気持ちは目には見えませんから「思いやりとはこういうものだ」と教える事は出来ません。その気持ちを人にわかるように可視化したのが正義です。その思いやりを発揮するには犠牲が必要です。自分は寒さを我慢しても相手に貸す。その自己犠牲から出た優しさのこと仁と言うのでしょう。しかし、誰もが犠牲になりたくはありません。犠牲になるには勇気がいるのです。『論語』には「義を見てせざるは勇なきなり」と言う言葉があります。簡単に訳せば「困った人がいるのに、見て見ぬふりをする。それは勇気がないということだ」という意味です。相手のために何かしてあげたいという気持ちが愛で、それを実現するために犠牲をいとわず勇気を振り絞って親切にするのが正義ということです。

別の例えをしてみましょう。誰かがいじめられているのを見たとき、どうしますか?「それはいじめだ。やめなさい。」とはっきりと言いたいところですが、なかなか言い出せないのが実際のところです。なぜなら、その一言で今度は自分がいじめられる立場になってしまうかもしれないからです。それを助けるのが思いやりで、いじめをやめさせることが正義で、報復を恐れないのが勇気です。


では、アンパンマンにとって正義とはなんでしょう?それはおなかのすいた子に食べ物を与えるということです。そんな子を見つけたときアンパンマンはためらうことなく自分の体をちぎって分け与えてます。自分の体を損なって与えるには勇気がいりますが、困った子を見過ごさないのがアンパンマンにとっての正義であり、そこがアンパンマンの優しさなのです。「何が君の幸せ?何をして喜ぶ?」アンパンマンにとっての幸せとは、おなかをすかせた子が癒されて笑顔になることなのです。だから困った子はいないか、とアンパンマンは「どこまでも飛んでいく」のです。アンパンマンはこうやって人を助けることで友達を作ります。

そうです。正義のヒーローアンパンマンは、愛と勇気さえあれば、どんな環境であっても友達を作ることができるんです。たとえ言葉の違う国に行っても、風習の違う異民族の中に入っても、タイムスリップして、大昔に行ったとしても、人間であれば必ず通じ合える。だから愛と勇気の2つ以外はなくてもいいのです。

ということでまとめますと、

人類の交際において、言語・民族・時代を超えて、不変の法則がある。思いやりこそが人類だけが持つ最も素晴らしいもので、それを持って接すれば、どんな人でも悪い気持ちにはならない。その思いやりを目に見える形に発露させたのが正義であり、その正義を実行するために必要なのが勇気なのだ。勇気を出して困った人を助ければ、いつでも友達が出来るのだ。