老子三十八章を読み直した

最近になってだいぶ三十八章がわかるようになってきました。

上徳不徳。是以有徳。下徳不失徳。是以無徳。
ここは「徳」を「得」とすることでわかりやすくなります。つまり、自分が得をするようなチャンスに利益を放棄するのが良い徳で、それをなんとかモノにしようとするのが小さい徳と言うことです。例えば、恵まれない人たちの施設に寄付する時、誰にも身元がわからないようにひっそりと行う(善行に轍迹無し)。もし、それが評判になっても最後まで名乗り出ないで済ませることができれば良い徳となります。しかし、一見匿名に見えるけれども、注意深く探れば誰がやったかは分かるように手掛かりを残しておく(見つけて欲しくてしょうがない)のが小さい徳といった感じです。僕にとっての身近な例で言えば、匿名で書いた記事がたまたまヒットして「こんなに受けるのなら、署名をつけてやればよかった」と後悔して、なんとか自分の記事だとわかるようにほのめかそうとしたりしたことでしょうか。うん、小さすぎる。

上仁爲之、而無以爲。
仁は思いやりのことを言いますから、人に親切にします。だから、誰がどうやって人助けをしたか、その前後関係はわかります。けれども、見返りは期待しません。感謝されたくて親切にしたわけではないからです。

上義爲之、而有以爲。
優れた正義は親切にしますが、利害関係を含みます。仁、つまり思いやりは心のなかのものですから、目には見えません。人助けの様に可視化されて初めて形となります。「思いやりとは何か」を人に教えるためには、人助けという目に見える形にすることで初めて可能になるのです。つまり、正義とは思いやりの心が表面に露出した上辺のことを言います。「どや、これが正義ちゅうもんや!」と見せつけて、自分たちの価値観を刷り込むのが正義です。

上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。

礼儀とはそうやって見せ付けられた正義に対して、「ああいうのを正義というのだから、あなたも真似しなさい」と言いふらすことです。表面に出できた正義だけを見て、あれを見習えと教えるのですから、思いやりの本質を理解していない、と言わざるを得ません。

例を挙げますと、学校でクラスメートがいじめられているのを見たとき、ひっそりと動いていじめができないように細工するのが良い徳です。ひっそりとはしていますが気心の知れた友人には「あいつがやったな(いいやつじゃないか)」と思う形で細工するのが小さい徳です。「もうやめとこうよ」とさりげない形で介入して仲を取り持つのが仁です。「それはいじめだからやめなさい」と仲裁した上で「これは皆の問題だから話し合っていじめをなくそう」といじめを表面化して問題解決するのが正義です。そうやって正義の味方が問題を解決し終わった後にしゃしゃり出てきて「君は彼に助けられたんだから礼ぐらい言いなさい」と強制的に頭を下げさせるのが礼儀です。

その後に、老子は礼儀を批判していますが、これは今のネット社会を覗いてみればよくわかるでしょう。ネットには、事件の経緯を知りもしないで失敗した人を正義の味方ヅラして叩く人がたくさんいます。こうやって安全な場所から悪者を好き放題に批判して騒ぐだけの人が思いやりのある人と言えるでしょうか?世の中が乱れてくるとこういう人ばかりになるというのは、老子の言うとおりでしょう。