身分制度の歴史

法律で身分を定めた元祖といえば斉の桓公を支えた宰相管仲(紀元前七世紀ごろ)でしょう。諸葛亮孔明が目標として尊敬したあの管仲です。


管仲はこれからの時代は農業に力を入れないと生き残れないと考えて重農政策を取りました。戦争で勝つには兵力がものを言います。そのためには人口増やさなければなりません。その人口を養うためには、食料が必要なので、農業に力を入れて兵隊として活用できる農民を増やそうとしたのです。

しかし農民というライフスタイルは土地に縛られてしまうので、庶民は嫌がって素直に従いません。あまりに厳しくすると土地を捨てて外国に離散してしまうし、苦労が多いと街に出て商売を始めてしまいます。まだまだ遊牧民も生き残っていた時代なので身軽な生き方を選ぶのが主流派だったかと思います。なにしろ斉の国は土地が痩せていて、農業が難しく、塩を売って生計を立てるより生きる術がない商業都市だったのです。そんな土地柄で、国民に農業を義務付けるには法律が必須だったのです。

四民分業定居論

と言うことで士農工商という身分制度が生まれました。そして土地に縛られて逃げることもできない重労働を担う農民を貴い身分として、いつでも外国に移住できてしまう商人を卑しい身分と定めました。もちろん、このように貴卑の差をつけただけでは農民は定住してくれませんので、違う身分への転職を禁じました。農民は五軒の家を一つのグループとし(五人組)相互扶助を義務付けて結束を高めました。徳川体制の身分制度は軽く2000年の歴史はあったわけですね。


五人組といえば連帯責任を負せて相互監視させる制度かと思いますが、管仲の五人組がそのような思想を持っていたのかは分かりません。王様の損得勘定的に考えれば、逃亡させないための制度と考えた方がしっくりきます。しかし、この五人組は苦楽を共にして生きることで結束力を高めること(郷土愛?)が狙いだったようです。戦争の際にもこの五人で一つの団を組んで行動したとのこと。超個人主義で生きる人たちに協調を学ばせることで国力を高めたのですね。


管仲が提唱した法律による統治は、やがて呉起(呉子)によって隣国の魏に伝わり、商鞅の手によって秦(紀元前四世紀頃の孝公の時代)に引き継がれました。

商鞅の政治思想は、管仲のそれよりずっと苛烈です。商君書の思想は国の主役は農民であるとしてあるものの、その主役の舞台から降りる事は許されません。同じ五人組でも、こちらはガチで監視目的の連座制でした。また、商人は卑しいどころか犯罪者でした。商行為そのものが法律で禁止されていたのです。

※これだと流通がストップして国の息が止まってしまうので、一応商人は存在しました。国が許可した外国人だけに商行為が認められたのです。こういう仕組みなら、商人が外国人であることもあって、農民の不満は容赦なく彼らに向かいます。
一見無茶な法律ですが、案外、国民は抵抗しませんでした。なぜなら当時は絶対的な存在として、刑罰の対象から外されていた貴族であっても、法律を破れば処罰される。また、貧しい家柄であっても、法律によって守られて、手柄を立てれば出世できる仕組みになっていたからです。むしろ、この改革に抵抗したのは貴族の方でした。これまでの特権を剥奪されてしまったので、殿様商売が通じなくなりました。彼ら貴族は、みるみるうちに弱体化し、また成功した農民達からどんどん突き上げられて、立場が怪しくなってきたので、大いに反発。やがて孝公が没すると、後ろ盾を失った商鞅は貴族達の反発を受けて失脚します。元の木阿弥に戻ったのですね。

商鞅の例でもわかるように、思い切った改革とは多大なリスクを孕んでいるものです。王様ですら貴族の反発にブルって日和見してしまう。そんな中でぽっと出の総理大臣が猛烈な改革を実施する。これがどれだけ細い綱渡りかをリアルに描いた小説(商鞅が主役ではありません)がこちら。
孟嘗君(1) (講談社文庫)

法律によって農民を統治するやり方を完成させたのは韓非子でした。韓非子は貴族の反発さえおさえることができれば、商鞅のやり方はうまくいくとわかっていました。そこで彼は秦の政王に孝公と商鞅の偉大さを伝えます。商鞅の改革を再発見した政王は律令制度を練り上げて断固とした農本主義を貫き、やがては天下を統一、後の始皇帝となるのです。

律令制度は、管仲商鞅の挑戦の集大成です。士農工商身分制度、各身分ごとの税制 、 五人組による相互監視、人口調査を超えた戸籍制度等々 、国家を組織として機能させるためのノウハウがぎっしり詰まっていました。

秦は始皇帝の死後に(律令制度の不満から)瓦解して、楚漢戦争の後に漢が天下を統一するのですが、その漢は不評だった律令制度をそっくりそのままパクって施行すると、あれだけ反発した国民がなぜだかすんなりと受け入れます(なんで? ) 。漢は400年も続いたので律令制度はすっかり根付いたのでしょうか、幾度かの混乱期を乗り越えて隋や唐の統一王朝もこれを採用します。そこに日本から使者(遣唐使)がやってきて、それを持ち帰ります。

日本の身分制度はこうやって始まったのでした。
(つづく)