日本の身分制度

東アジアの身分制度管仲によって士農工商に分けられ、その後、春秋戦国時代の500年ほどの期間をかけて試行錯誤しながら発展していき、秦によって律令制度が確立し、漢によってその習慣が民間にまで浸透したのでした。その律令制度は遣唐使によって日本に持ち込まれました。

身分制度の歴史


律令の中に組み込まれた身分制度を日本に持ち帰った遣唐使ですが、当時の日本には貨幣の概念が浸透しておらず、商人はいませんでした。また、専門的知識を要する職業も姓(かばね)が請け負ってきたので、職人という職能集団はいませんでした。つまり、身分制度士農工商といった明確な分割ができなかったのです。

そこで農民と非農民に分けて後者を非人と呼びました。「人」とは律令を理解して、その仕組みに参加(戸籍登録)し、朝廷から田を預かって納税する人のことをいい、非人とはそこに参加しない人のことでした。

ここで言う農民とは我々が指す百姓とは少し意味合いが違って、純粋に稲作を行う人たちのことをいいます。細かい定義は正直僕にもわかりませんが、大雑把に言えば「収穫物を手塩にかけて育てて生産する人」を農民と言うようです。例えばきこりなどは農民ではありません。彼らは山に生えている木を切り倒して持ってくるだけなので、それを人の手によって生産しているわけではありません。漁師なども同じく農民ではありません。 彼らの生産物は手をかけて育てたものではなく、自然が勝手に育んだ獲物なので苦労などしていない、といった考え方のようです。
基本的には土地に縛られたまま苦労を重ねて収穫する人が国民であって、自由に移動したり、公共物を取ってきて加工するような人は非国民だと言うことです。もしかしたら縄文文化を捨てきれず、狩猟採取をやめない人たちのことを想定していたのかもしれません。

時は降って鎌倉時代に入ると、武士が権力を握って天皇家の力は失墜します。このとき武士が天皇に要求したのは田んぼに対する徴税権でした。これまで収穫されたコメは天皇を頂点とする朝廷のものでしたが、今後は武士が税を管理することになったのです。これで困ったのが天皇でした。このままではまったく食えなくなってしまいます。そこで目をつけたのが、非人たちです。田んぼからの税収を失っても、まだ山林・海・川・町・道路の徴税権を失ったわけではありません。商人や職人などの町民と木こりや漁師、果ては行商人や山伏・極道・前科者・遊女まで農作業の社会からはみ出したあらゆる人たちに支えてもらうことにしました。何しろ京都は巨大な街です。灯台もと暗し。近所にこんな心強い仲間たちがいるとは気づきませんでした。


そこに現れたのが後醍醐天皇です。彼は鎌倉幕府がもたついているのを見て、これはチャンスとばかりに非人たちに呼びかけて勝負に打って出ます。その試みは失敗してしまうものの、後醍醐が起こした波は武士たちを大きくゆり動かして仲間割れを誘って、鎌倉幕府が倒れてしまいます。何と言う泥仕合

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

そういった経緯で非人たちが手を組むと馬鹿にできない力を発揮すると知った武士(徳川)は彼らを工商と穢多非人に分割して勢力を割いたと言うわけです。途中で身分制度の区分が欠落してしまうけど、長い時間を経由して元通りの士農工商になったのは興味深いですね。これは古文書を読み漁って勉強したのか、それとも人類の営みに共通するものがあったのか。定期的に中国から輸入していたんでしょうかね?

中国での思想はともかく、日本に入ってきたときに階層の欠落とともに差別意識も丸められていたので、 (日本では)根強い差別意識を持って身分制度が始まったとは言えないようです。次回は身分制度の歴史農民が非人を生み出す構造]について書きたいと思います。



なんか途中で時の流れが高速進行した気がするけど…

お金は汚いとか、額に汗をしないのは労働ではないとか、そういった古臭い考えはこのような身分制度が発生源かと思われます。現代社会も社畜とかノマドワーカーとか海外脱出とか、まぁその辺のキーワードを拾ってくると昔と大差ないなぁと思います。暇な人は現代社会に当てはめて考えてみると面白いかもしれません。