奈良盆地が日本の首都…だと…?

奈良盆地といえば21世紀になっても割と田舎…というと失礼か…交通の便がイマイチで発展性にかける土地柄ですよね。

ここが日本の首都だったとは直感的には理解できないなぁ…なんで当時の人はここを首都にしたのだろう。

などと疑問に感じていましたが、交通の便が悪い=天然の要崖だったわけですね。周囲を山に囲まれているので外部から敵が襲ってこない代わりに逃げ場もない環境だったわけです。つまり盆地の内部で激しい争いが繰り返されることで次第に権力が一つの部族に集中していき、奈良盆地が一つにまとまった時点で外部では太刀打ちできないほどの強力な政権が誕生していたということでしょう。

おそらく弥生時代後期にはオーソドックスな里山の村が盆地内にいくつもできていたでしょう。里山の農村は山をバックに平地に向かって村が拡張されていきます。盆地は周囲を山に囲まれていますから、これらの山に張り付くように、リング状にムラが発展していて、それが次第に川下(盆地の中央)に向かって規模を拡大していったと考えられます。この時は、まだ平城京のあった周辺は水の確保の困難さから使われていなかったことでしょう。強いて言うなら盆地の部族同士が交易をするために市が設けられたり、サミットをするために宿舎のようなものが建築されていたかもしれません。

さらに時は流れると、盆地内での拡張が難しくなってきて争いが起き始めます。ここでは安定的に水が供給され耕作地を拡張しやすい部族が勝利を収めていたことでしょう。最終的には有力な部族がいくつか残り、それらの部族の間で政治家(農業に従事しなくても生活できる支配階級)が現れたので、彼らの交渉事がはかどるように、中央に首都が作られたのでしょう。

ここまでくれば奈良盆地は天然の要崖となります。峠を遮断すれば簡単には進入できません。防衛にかかる労力が少ない分、安心して農業に打ち込めます。瀬戸内海の沿岸で魚を取りながら生活する部族はこれに対抗するのは難しかったでしょうね。

まあ、この辺は想像に過ぎないのですが… 。もしこういう流れなら「平城京は農地として使い道のない空き地を活用した」のかもしれませんね。

ところで、奈良盆地には海がありません。という事は塩も手に入らないはずですね。海に入れるためのルートを確保するのは最重要課題だったのではないでしょうか。熊野や伊勢を重要視したのは、そういった理由からでしょうか?