無名の樸

無名の樸

解説

という字は六回登場する。特に無名の樸として、とらえどころのない存在として描かれる。

まず、は文字としては「切り倒したばかりの木の丸太」の意味を持つ。「名」は固有名詞を付けて違いを認識できるようになったものであるから、「無名」とは「何とも呼びようのない状態」となる。

つまり、「無名の樸」とは、そのままでは何の役にも立たない素材でありながら、一度手を加えればあらゆる木工品へと変化できる無限の可能性を秘めた存在でもある。これは、何とも名付けようのない「道」があらゆる物を生み出したように、無名の樸も万物の母となりうることを意味する。

となると、人は無名の樸のように何一つ手を加えない姿であることで、道に近いものを得られるということになる。大雑把な意味では「素朴」くらいだろうか。

「無名の樸」が直接出てくるのは第三十七章。ここでは、無名の樸を無欲な状態としている。人には本来「無名の樸」が備わっており、高貴な人が素朴であれば人は自然と変化する。しかし、貴人に気に入られるために「無名の樸」になろうとするのは欲となる。欲が出た人には、「無名の樸」で抑えようと言っている。
第五十七章では、「我」が無欲ならば民は樸となると言っている。どちらも手本として見せてもよい無欲さのことを言うのだろう。

第二十八章では、栄誉を知りながら恥ずかしいとされる身分でいれば、樸になれるとある。つまり、初めから無能なわけではなく、敢えて無能なのだ。
さらに、樸は切ったり割ったりすれば道具になるが、聖人は道具になった人材を役人にして働かせると言っている。だから、樸になったら切ったり割ったりするなと戒めている。欲を出せば道具へと変化し、道具になれば可能性は頭打ちとなる。聖人への道はバカなふりをするレースでありながら、その最高バカが役人の人事権を持つ。老子らしい、おかしな話だ。

第十九章では、樸を抱けと命令しているので、率先して取り組むべきものなのだろう。

第三十二章は少し複雑で、の意味を知るために第三十四章とセットで読まねばならない。
第三十四章によると、小とは無欲。つまり、樸である。樸と同じような小であれば、万物が集まってくる。そこで指図しなければ偉大となる。
その解釈で第三十二章を読めば、諸侯が樸として命令しなければ安定するという話になる。

第十五章の樸はあまり無名の樸とは深い関係はなさそうだが、無能さの補強ではないかと思われる。