明-浅はかな智慧と絶対的な智慧

明-浅はかな智慧と絶対的な智慧

解説

老子は随所で無知であれと言っている。では、本当に何も知らないでいいのかといえば、そうでもない。一体、何を知るべきで、何を知るべきでないのか。

まず、知るとは何か。第三十三章に、「人を知るのが智」とある。これを第一の足がかりとする。智、つまりは「他人を観察することで利害を見つけ出し、欲を刺激することで人を操ろうとする、そこで活用される知識のこと」。これを持ってはいけないものと言うのだろう。他の章でもという文字はおおむね否定されている。第十八章では、他国を騙すための策謀を出すために活用されているとして、これを否定。第十九章では、身分の差、貧富の差を産む元として、これを否定。第五十七章では、人々が知恵を付けると、狡賢く立ち回る者が出て、それを真似たり嫉妬したりと悪いことが起きると主張。第六十五章では、第五十七章の理由から、政治に知恵を持ち込まないことが肝要だとしている。

では、知るべきはなにか。第三十三章に、「自分を知ることが明」とある。このという文字も随所に出てくるが、こちらはおおむね肯定的な文脈で使われる。第十六章では命が循環することをといって、これを知ることとしている。第五十二章では、小を見ることとし、第五十五章では、調和を知ることを常といって、常を知ることとしている。このようにとは、知っておくべき絶対的な智慧として取り上げられているが、章ごとに揺れがあって一貫していない。また、単に感覚的な「明るい」の意味で使っていたり、「民を明るくしないで愚かにする」と否定したり、もっとも解釈が難しい文字。自分がいつか老いて死ぬことを受け入れていることを言うのだろう。