極と中

極と中

解説

中庸。極端を避けて中くらいを維持する。

この「中庸の良さ」は古今東西を問わずさまざまな賢者が「最も良く最も難しい」と言及してきた。上昇志向の厚い孔子であっても最後には中庸が最も良いと言った。老子もそこは同意見だったようだ。老子ほど極端な物の考え方をする人もなかなかいないと思うが、極端がどんなものかを知った方が理解しやすいといったところだろう。

そこで「極端」と「ほどほど」について書いた章をまとめてみた。

まずは、第九章。ここでは、やり過ぎると失敗する例を日常生活の中から出すことでわかりやすく教えている。さらに、成功したら後腐れなく辞めてしまうことを勧めている。大抵の人は成功に味をしめると失敗するまで辞められない。失敗してやっと極端だったことに気付く。
ほどほどの難しさを教えるにはこれで充分だろう。極端がなぜいけないかといえば、取り返しがつかないほどの失敗をするからだ。極端を行って失敗する人の例は失敗する人でも見ておけばいいだろう。

第三十章も極端で失敗する例だ。軍事力に偏った国家運営。相手に服従の意志を取り付けるだけで済まさず、貢物を要求して威張る。こちらは戦争で大勢の人を巻き込む分、より悪質だ。ここでは、「盛んであれば老いる」と国を人の生涯にたとえて教えている。

第四十四章第九章の続きであると考えて良いか。たくさん持ちすぎると維持に手間がかかりすぎて多くを失う。だから、「知足」。つまり、ほどほどで満足するのが良いとしている。この「知足」こそが老子流の「中庸」表現だろう。

「知足」は第四十六章にも出ており、何でも手に入れようとするのは単なる失敗では済まされず、罪であると言っている。

逆に不足していることで成功する例もある。第七十六章第三十章のように軍事力に頼る国を老人にたとえて戒めているが、それと同時に生まれたての柔らかな赤ん坊は生命力が豊かであると言っている。

第五十五章第七十六章と同じ理屈で、赤ん坊のように裸で無垢な姿であれば将来が安心で、立派になると老いがくるとしている。

だから、第七十七章のように多い者から減らして少ない者に移すのが自然な道だと言う。これが道の持つ力「無への回帰」である。

極端な強気に出てはいけないことはわかった。弱いほうが将来性豊かであることもわかった。では、リーダーは実際どうすればいいのか。極端と中立のシンプルな説明は第四十二章にある。中が成立するには「陽」と「陰」の両者の他に三人目となる「中」がいなければならない。この沖気と陰陽がそろってバランスを保てる。

第二十八章では、善悪の両方を熟知しておいて、そこから悪の弁護をしていく。それでやっと善でも悪でもないほどほどのバランスが取れるとしている。

第五十九章では、勝てないことがないだけの力がつけば極端なことをする必要がないとしている。国はそれでやっと維持できるとしている。

第五十八章では、極端なことをすると、正義であったものが悪に変わり、悪であったものが正義となる反転作用が起きるとある。その反転ポイントは誰にもわからないので、はっきりとはしない方が良いのだとしている。これは第四十九章も同じような話で老子なりの政治感覚であろう。

第五章では、言葉を少なくして中立を守れと直接的に戒めている。ぼんやりと広い心で濁しておくのが良い理由は上記でわかるだろう。

全体を通してみると「中立にいてバランスを取れ」と「低いところに回ることで将来の飛躍としろ」の二種類の主張があって揺れている。老子の考えは前者なんだろうが、善悪の二元論で話しが進むと後者に行ってしまうようだ。

これには何か決定的な違いがあるのか。どうも「徳」が成長段階の生き方で「道」が達成後の生き方っぽい。
成長段階では徳を行う。強くなるごとに減らして弱めて道に助けてもらいながら強くなる。このサイクルを回して器を大きくしていく。
成長によって天下が取れたら人が集まってきてしまうので中立を心がける。だから、低いところに意識を置くのはいいが、ステップアップのために下るようでは、まだまだなのかもしれない。