第五章 多言は數窮す。中を守るに如かず。

原文

天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。
天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。
多言數窮、不如守中。

訓み下し文

天地(てんち)(じん)ならず、万物(ばんぶつ)(もっ)芻狗(すうく)()す。聖人(せいじん)(じん)ならず、百姓(ひゃくせい)(もっ)芻狗(すうく)()す。
天地(てんち)(かん)(それ)(なお)槖籥(たくやく)のごとき()(むな)しくとも(くっ)せず、(うご)きて愈々(いよいよ)()ず。
多言(たごん)(しばしば)(きゅう)す。(ちゅう)(まも)るに()かず。

解釈

自然は勝手気ままに命を産むが、用が済めばすべての生物を平等に殺す。聖人もまた、人を分け隔てなく愛するが去っていく者には心を置かない。
社会はふいご似ているか。ふいごはからっぽだから充満していて、動かせば風が出る。
軽率な言葉はしばしば誰かを追い詰める。心をからっぽにして偏重しないように心がけるに越したことはない。

備考

聖人は不仁という主張が引っ掛かって先に進めない章。
自然に仁がなく容赦もないのはわかる。だが、聖人がなぜ、不仁なのか。
老子孔子を代表する儒家の主張をことごとく否定しているが、意外と仁は否定してない。

第三十八章によれば「仁」とは「為すけど成したとしない」こととある。聖人はもちろん「為さないで為す」わけだから違う。
つまり、聖人は民に対して表向きは何の温情もなく平等だということだ。だから結論の言葉を少なくして中立を守ることになる。

天地不仁、以萬物爲芻狗。
祭りのお供えは祭りの間は大切にされるが、終わるとためらいなく捨てられる。同じように、物は壊れ、人は老いて死ぬ。そこに同情はない。

聖人不仁、以百姓爲芻狗。
聖人も同じように、民が生きている間は大切にするが、死んだらそれまでとして特別な扱いはしない。善人だろうが功労者だろうが肩入れはしない。「来るもの拒まず、去る者追わず」といったところか。

天地之間、其猶槖籥乎。
天地之間とは大気中のこと。これをふいごにたとえている。

虚而不屈、動而愈出。
大気が満ちた空っぽな状態。空は柱がないのに落ちてこない。ふいごで言うなら屈してこない。もし空が動き出して落ちてきたら、人はこの世から押し出されてしまう。だから、空虚であることが、充満していて最大限の可能性を持っている状態。聖人も同じで動けば止まることなく人が出ていく。

多言數窮、不如守中。
聖人がものを言うと、人が出て行ってしまう。民にとっては聖人の動きは死につながる。だから、息を吸い込んだ状態を最上とする。しゃべりすぎずに、胸に中空を保つことがよい。
第二章には多言に対する「行不言之教」がある。第十六章では「悠兮其貴言」と言葉を慎むよう教えている。
スポーツでは息を吐くと同時に体を動かす事が基本。息を吸うときには力は入らない。何かをするときは事前に息を吸っておく。

ということで、聖人が何もしないのは力がありすぎるからだ。意味があって虚ろな心を保っていることをふいごでたとえている。つまり、民を思えば動くなということだ。これは立派な人の強い影響力が何を引き起こすかわからない怖さを持っているためである。よく似た話が第四十九章にもある。

ヒント


天地(てんち)

自然や自然現象、世界全体のこと。
天は空(大気圏)だけでなく宇宙も含むので、違和感はあるかもしれないが、宇宙とした方が意味が近い。
天下といえば人間社会。

百姓(ひゃくせい)

国民のこと。
農民のことではなく、百の姓(かばね)。古代中国では従事する仕事によって姓が決まった。百以上あるたくさんの職能民だから、百姓は国民。

芻狗(すうく)

祭りで使われる藁でできた犬の人形。
祭りの間は大切に供えられるが、終わるやいなや捨てられる。

槖籥(たくやく)

ふいご。製鉄で使われる送風機。
中は空洞になっていて、レバーを押し引きすることで空気が入ったり出たりする。
当時はやっと鉄器が普及しだしたころだった。

多言(たごん)

おしゃべり。言い過ぎること。
気に入られるために心とは違うことを言ってしまうこと。
対する言葉に不言や無言がある。


(なお|ゆう)

あたかも〜のようだ。
まだまだ。
余裕があるゆったりとした様子。

(クツ)

曲がる。かがむ。
くじける。

(いよいよ)

より一層。

(かぞ-える)

数の旧字。
数える。計算する。
あまたに。数多く。

(ちゅう)

中央。真ん中。

ルビ無版下し文(コピペ用)

天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。
天地の間、其猶、槖籥のごとき乎。虚しくとも屈せず、動きて愈々出ず。
多言は數窮す。中を守るに如かず。