第十八章 大道廃れて仁義有り。

原文

大道廢、有仁義。智慧出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有貞臣。

訓み下し文

大道(たいどう)(すた)れて仁義(じんぎ)()り。智慧(ちえ)()でて大偽(たいぎ)()り。
六親(ろくしん)()せずして孝慈(こうじ)()り。国家(こっか)昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)()り。

解釈

道が廃れるところには仁義がある。
知恵が出るところには嘘がある。
不仲な家には親孝行がある。
混乱した国には忠臣がいる。

備考

儒教を批判した章。

老子は向上心を煽る儒家を作中で繰り返し批判している。中でもこの章は短いフレーズで敵を次々と切り伏せていく気持よさがある。覚え易いので、ついつい口に出てしまうが、この章は問題提起で終わっており続きは第十九章にある。また、その本質は第三十八章にあり、これらをしっかりと理解しておかないと危うい章である。

この章を安易に訳してしまうと「聖人たる周文王が道で王朝を築いた治世では仁義を振りかざす者はいなかった。道をおろそかにする者が出てきて乱れ出して以来、仁義がありがたがられるようになった。だから、仁義はあるべきじゃない。」となってしまって「ケータイができて以来、学力が下がった。ケータイなんて作るな。」という老人のたわごとにしか聞こえない。
まぁ老子は懐古主義者みたいだから、そういうだろうけどね。論理的には簡単に論破されそうな部類なんで、余程の自信がない限りは口にしない方がいいかもね。差し出がましい人に腹を立てたときに心の中で毒づくにはいいかも。

大道廢、有仁義。
道という根本がないのに仁義があっても、基礎のない上に家を建てるようなもの。

智慧出、有大僞。
本来、知恵は人を助けるためにあるものなのに、実際には謀略に使われ、嘘ばかりになった。さらに、その嘘を見抜くために知恵者が求められ、知恵はことごとく騙すためにつかわれる。

六親不和、有孝慈。
当時の乱世は兄弟喧嘩・親子喧嘩が当たり前。諸侯の多くは元をたどれば初代周王である文王の子供たち。言ってみれば骨肉の争い。
当時の情勢では家族と言えど安心できない。弟が疑われないように兄に孝慈を尽くすと、弟の評判が上がってしまう。兄はそれが面白くなく誅殺しようとする。たまらず防戦するとやっぱり謀反となる。魔女狩りのようなもので、どちらにしても命はないので、殺し合いが始まる。
そんな世の中では孝慈の意味がないのだが、それでも仮りそめの孝慈を行う。

國家昏亂、有貞臣。
貞臣は忠臣のこと。諸侯に孝慈の心がないんだから、家臣に忠義があるわけない。
そんな時代だからこそ、当たり前の忠義を見せただけで評価される。

ヒント


孝慈(こうじ)

親孝行と家族愛。
第十八章では、大道が廃れて家族がバラバラになったから「大切にせよ」と強制されるようになったと言っている。
その答えとして、第十九章では仁義をやめれば自然と孝慈の心が戻ってくると言っている。

智慧(ちえ)

知恵におなじ。
仏教用語としては、絶対的な認識として受け入れられている。知恵は人間が努力して知識化したもの。智慧は差別区別から比較判断しない仏様視点の認識。ただ、老子で使われる智慧は、いずれも否定的に扱われるので、人間の小賢しい知恵と考えた方がいいようだ。
明-浅はかな智慧と絶対的な智慧

貞臣(ていしん)

忠臣。主君のために命がけで働く臣下。
とは元来、国家運営の基本方針を王が占いで神様から聞き出す行為だから、僭越な臣下かもしれない。

昏亂(こんらん)

混乱とほぼ同じ。

仁義(じんぎ)

儒教が重要とする徳目の上位二つ。
五常といって「仁、義、礼、智、信」の順に大事にされた。

六親(ろくしん)

父母兄弟妻子のこと。


(ジン)

思いやり。あるいは、まごころ。
儒教ではもっとも大切にされる。人間には仁さえあれば良いが、それを続けるには義が必要とされる。
字形は座った人の尻の下に2枚の敷物がある様子。身体が冷えないよう、自分の敷物を貸す気持ちかな。

(ギ)

正しい行い。正義。
仁の心を持った者なら見捨てはできない人助け。

ルビ無版下し文(コピペ用)

大道廃れて仁義有り。智慧出でて大偽有り。
六親和せずして孝慈有り。国家昏乱して貞臣有り。