第十九章 素を見わし、樸を抱き、

原文

絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。
三者、以為文不足。故令有所屬。
見素抱樸、少私寡欲。

訓み下し文

(せい)()()()てれば、(たみ)()百倍(ひゃくばい)す。(じん)()()()てれば、(たみ)孝慈(こうじ)(かえ)る。(こう)()()()てれば、盗賊(とうぞく)()ること()し。
()三者(さんしゃ)()っても(ぶん)()らずと()す。(ゆえ)(ぞく)する(ところ)()()めん。
()(あら)わし、(ぼく)(いだ)き、()(すく)なくし(よく)(すく)なくせよ。

解釈

聖人と呼ばれるような立場にいることを辞めて、智に頼らない政治をすれば、民衆の利益は百倍になる。仁義を指導しなければ、民衆は孝行の心をを取り戻す。効率を上げろ、利益を出せと言わなければ、盗みやサボリはなくなる。

これだけではまだ説明不足だから、従うべき所を教えよう。
飾らない姿で、素朴な気持ちで、控えめにして、欲張らない。

備考

第十八章に続く儒教批判。
仁義と孝慈があるから、世の中が乱れる。そこから立ち直る方法は、質素かつ素朴に生きること。

初見で違和感を覚えるのは「絶聖」。特筆せざるを得ないだろう。老子で「聖人」以外の「聖」が出てくるのはここだけ。聖人を絶するなんて、何かの間違いじゃないかとも思うが、そう書いてあるなら従うよりない。

聖人という存在は老子固有のものではなく、儒教も聖人の教えを引用して指導した。墨子も聖人の統治に習うよう主張したように、誰もが知っていて話の引き合いに出す偉人が聖人だ。
いずれの聖人も同じ人を指しているが、視点によっては彼らの功績の褒めたたえ方が違う。だから、儒教に出てくる聖人の教えを捨てろと解釈してみた。

絶聖棄智、民利百倍。
聖人とは民を指導するべき立場ではない。聖人とおだてられて上からモノを言うようではいけない。ましてや民の利益が十倍にもなるような効率的な生き方を指導し、知恵をつけるようであってはいけない。聖人なら十倍で満足してはならず、無知でもって百倍を目指さねばならない。
まぁこんな感じに儒教の聖人を批判していると考えてみた。

絶仁棄義、民復孝慈。
ここで言う仁義がどんなものかはイメージできていない。第三十八章では、上仁・上義ともに「これを為して」とあるから、指導力や影響力を発揮することを警戒しているのか。早い話が押し付けられるから反発される。

絶巧棄利、盗賊無有。
第三章の得難きの貨と同じ理屈。

見素抱樸、少私寡欲。
人が心がけることを最もシンプルに言ったのが、このフレーズかもしれない。
本当の聖人が教えることはこっちだと言いたいのだろう。もちろん聖人もこれを守るんだから、智を捨てる。

ヒント


孝慈(こうじ)

親孝行と家族愛。
第十八章では、大道が廃れて家族がバラバラになったから「大切にせよ」と強制されるようになったと言っている。
その答えとして、第十九章では仁義をやめれば自然と孝慈の心が戻ってくると言っている。


(セイ)

神の声を聞く人。
つま先立ちして耳を澄まして神の声を聞く人。

(み-る|あらわ-す)

目で見ること。超常現象が見えるのは視る。
現す。見えるようにする。
見ると見せるが同じ文字だから、判断が難しい。

(ジン)

思いやり。あるいは、まごころ。
儒教ではもっとも大切にされる。人間には仁さえあれば良いが、それを続けるには義が必要とされる。
字形は座った人の尻の下に2枚の敷物がある様子。身体が冷えないよう、自分の敷物を貸す気持ちかな。

(し-む|れい)

させる。令A(名詞)B(動詞)のとき、AをしてBしむ。AにBさせる。
命令。

(ぼく)

丸太。
切り倒して枝打ちしただけの材木。
無名の樸

(そ)

ありのままの姿。

熟語(2種/2回)

盗賊 孝慈

ルビ無版下し文(コピペ用)

聖を絶ち智を棄てれば、民の利は百倍す。仁を絶ち義を棄てれば、民は孝慈に復る。巧を絶ち利を棄てれば、盗賊有ること無し。
此の三者を以っても文足らずと為す。故に属する所有ら令めん。
素を見わし、樸を抱き、私を少なくし欲を寡なくせよ。