平安末期の農業革命

事の発端

日本史嫌いを克服するために鎌倉期の本を2冊読みました。どちらも小学生から中学生向けの簡単な本です。その中に引っかかることが書いてありました。

平安末期から鎌倉時代にかけて、人々の宗教観に変化が起こり、これまでタブーとされてきた下肥(人糞)の利用が受け入れられていった。これによって、農業の生産性は飛躍的に向上し、人々の生活も安定した。

肥をまけば生産量が上がるのは農業に従事していればすぐわかることなので、太古の時代からとっくに取り入れられているものかと想像していましたが、案外遅かったのですね。どちらの本にも同じことが書いてあるので、重要な事柄であることと、価値観が変化した理由がわからない事は確かなのでしょう。いずれにせよ原因が分からないというのは妄想力を発揮するにはうってつけの題材です。わからない部分を想像して「きっとこうだったに違いない!」と決め付けることができるのが、歴史好事家の醍醐味です。これが学者であれば、それを証明するために資料にあたらなければなりませんが、ただの好事家なら好きに放談できますね。

調べてみる

人糞を肥料にする農法は世界的にも稀らしいです。これが起きたのは日本くらいなもんで、グローバルスタンダードでは動物の糞を使うことはあっても人糞はないとの事。中国でも人糞を屎、家畜の糞を糞として漢字を区別したようです。自分たちが出したUNKOを吸収して育った農作物を自分たちの口に入れるなんて、想像しただけでも ゲェェェってなる感じでしょうか。 大陸から渡来してきた弥生人も神話レベルで肥の投入を禁止されていたのでしょう。なるほど、大陸には農耕だけでなく、牧畜文化があります。このような社会では農耕と牧畜を組み合わせて二つの土地を交互に入れ替えて地力を落とさないようにしますね。十分なスペースさえあれば土に返った肥料で農業ができるので、わざわざ生々しい排泄物を扱わなくても済みます。しかし、日本は気候風土が牧畜には向いておらず、牧畜文化を持たなかったので、動物の糞は入手するのが難しかったのですね。ないものを使う事はできませんし、収穫量が飛躍的に伸びるからといって、こんなタブーをわざわざ犯したいとは思いません。

大胆に推測

では、なぜ日本人がそんな心理的抵抗の高い下肥の利用に踏み切ったのでしょう。ここで思い切った推測をしてみたいと思います。

東日本の武士団が西日本の朝廷に負けたくなかったからではないか。

話が飛躍してますね。少しずつ話を近づけていきたいと思いますが、まず西日本と東日本はとても仲が悪いです。この頃はまだ、関東・東北は縄文文化、それ以外は弥生文化と文化に断絶がありました。その辺の事情は大和王朝と関東縄文人にも書いたのですが、わずかな風土の違いから弥生文化が浸透しきれず、そこから制度的な不公平が生まれていたからですね。ということで「朝廷から独立できるならUNKOだって撒いてやるわ」といった具合ではないでしょうか。

いやいや、話はまだまだ飛躍してますね。もうちょい事情を積み上げたいと思います。弥生人が渡来して来たとき、日本の風土は牧畜に合わなかったので、彼らは牧畜を諦めました。また、人糞を利用することも許されていないので、肥料の利用そのものを諦めました。そして、その農法をそのまま縄文人に伝授しました。縄文人はそれまでに牧畜も農耕も経験していないので、農業とはそういうものだと頭から信じ込んで、肥料というものを思いつく機会がなかったのです。それと同時にタブーも持ち合わせていなかったので、常識にとらわれない挑戦をすることが可能だったのです。

だいぶ話が繋がってきました。下肥農法を始めたのは、これまで肥料という存在に気づかずに農業してきた縄文文化系の関東人だと言うことです。「俺たち、すげーことに気がついたぜ」と言いながら満面の笑顔で人糞を田んぼに撒き散らしている彼らを見て「気色悪いことやってるなぁ。あいつら頭おかしいし」と横目で見ていた弥生人。しかし、それが目覚しい効果(飛躍的な生産量の増加と、生活の安定による人口増加)を上げるので、関東を統括する武士たちは「これは使える」とばかりに力を入れます。

下肥の導入は、単位面積当たりの生産量を上げるだけではありませんでした。それまでの田んぼは日本の原点にあるように、里山に依存していました。この方法は、導入コストは安いのですが、山からのわき水下流に行くほど水質は悪くなり、収穫量も下がります。村がこじんまりしていれば湧き水だけで充分なのですが、村が発展してきて規模を拡大したい時、どうしてもどこかで頭打ちになるのです。この時期にはある程度は土木技術が発達してきて、比較的平野に近い土地まで開拓することは可能でした。しかし肥料の問題で開墾できるはずの土地に手を出すことができません。その限界の壁を打ち破った農法が下肥だったというわけです(断定) 。肥を投入することで、山の滋養が届かない平野部でも連作による収穫量の悪化を心配することもなく開拓できる。平野が続く限り拡張していける。これまでの停滞を一気に吹き飛ばすような大発見です。

天のいたずらでしょうか、ちょうどその時期に、貨幣経済が受け入れられて積極的に商取引が行われるようになったのですね。それまでは村という生活単位ですべて閉じていて、村に必要なものは全て自分たちで生産して賄うと言う考えでした。自給自足なので、どれだけ農作業に勤しんで収穫量を増やしても余ったものは大して役に立ちません。しかし、交通網が実用化のレベルに達してきて、近隣の村との交流が可能になると、余ったものを売ったり、足りないものを買ったりすることが出来るようになります。これまで使い道がなかった余剰収穫物を商品として利用できるのです。つまり、たくさん作るほど儲かるのです。こういったことから、農業の得意な村は農業に打ち込み、商業の得意な村は都市化することができたわけです。最初は「常識を知らない馬鹿のやること」と横目で見ていた弥生系日本人たちも、全国的に共通する行き詰まりを解決できる農法であることに気づいて、しだいに興味を持つようになってきます。

民意の後押しで革命

さて、こういった時、肥を使う農法を朝廷は禁止して武士は推進するという対立構造も生まれました。民衆からの視線は「時代の流れを読めずに貧困を放置する頭の固い守旧派」と「旧習を打ち壊して利益をもたらす改革派」に見えたので、人々の心は次第に朝廷から離れていきました。鎌倉武士の自由奔放な農法と、それに伴う画期的なまでの収穫量の増加をみれば、朝廷から離脱あるいは両面外交で武士政権と修好を通じようとする西日本の有力者もいたことでしょう。なにしろ収穫量は倍増するのですから、たとえ両者に納税しても損する事はないのです。こうやって源氏は農業革命どころか本物の革命を成し遂げたのです。鎌倉幕府の成立です。

タブーを壊せず下肥の受け入れが遅れた西日本見て、朝廷にとどめを刺すべく頼朝の放った次の矢は「二毛作」でした。稲の収穫が終わった後の土地で冬野菜を栽培すれば収穫量は倍増です。この農法は肥料の投入なしでは土地がどんどんやせ衰えてしまいます。下肥の導入を見合わせているようでは、絶対に真似できません。

結論

教科書的には「辺境で起こる反乱を武力で鎮圧できた武士が次第に力を持つようになり、やがては権勢すら天皇をしのぐほどになった」という歴史観が正解なのでしょうが、 「チャレンジングな農業改革が国を揺るがすインパクトを生じて勢力地図すら書き換えた」という物語の方がずっと面白いんじゃございませんか?

日本の原点

日本の原点といっても始まりはどこだよというツッコミはありますけれども、一応ここでは水田稲作が始まった弥生時代を日本の原点としたいと思います。

水田稲作を考えるとき、日本の原点は里山にあります。「日本の原点は里山にある」なんて言うと懐古厨うぜぇええええ言われるかもしれませんが、歴史のまとめなので、まぁいいとします。

水稲栽培には水が必要です。我々が想像する水田は平野一面に広がる大規模な田んぼですが、平野を利用した田んぼができるようになったのはせいぜい江戸時代くらいからだそうです。我々の感覚では「水なんて川から引いてくればいいじゃん」と考えがちですが、いちど川に落ちてしまった水を引き上げてくるのは簡単ではありません。川から水を引くことを考えると、上流にさかのぼって、そこからから用水路を引き回してこなければなりません。また、川の水は天候によって大きく水量が変化して、ときには暴れることもあるので、水量コントロールが難しいです。これらを考慮すると大規模な潅漑工事が必要なので、高度な土木技術が必要です。これがすべてできるようになったのが、やっと江戸時代に入ってから…ということらしいです。

土木技術が未発達な時代に水を手っ取り早く引くには、山の麓に住むのが1番です。山からのわき水を使えば比較的水流をコントロールしやすく、山の保水力によって水を安定供給できます。また、山からのわき水は、山の滋養を含んでいるので、肥料を使わずとも連作による収穫量の悪化を心配することもなく栽培できます。
このように、原始の稲作民は山に強く依存していました。彼らにとって、山は守り神なのです。その山の麓にある森を鎮守の森として神格化し、その山と裾野の平野との境界に神社を建て、神社を村の中心として、そこから平野に向かって集落と田んぼを作っていくのです。この構造が日本の典型的な里山です。私が住む街にも、これと同じ構造の村があるので、日本の至る所に見られるでしょう。

この話がどれほどの信頼性を備えているかは別にして、このような感じで、当時の人々の暮らしや技術レベルを押さえておくと、突拍子もない話を生み出してしまう恐れが減るのではないか、と思います。

大和王朝と関東縄文人

渡来人が奈良に王朝作るまで

紀元前5世紀ごろから徐々に九州地方に上陸し始めた弥生人は土着の縄文人を吸収しながら東へと勢力を伸ばしました。2世紀頃には、その勢力は関東まで及んだようです。勢力拡大にあたって土着の豪族との小競り合いはあったでしょうが、おおむね平和的な広まりを見せたようです。狩猟採集を中心に生活する縄文人は身分の上下関係がなく、命令系統も組織だっていないので、戦争という解決方法を採用しなかったのでしょう。それよりも弥生人の持つ稲作の技術に興味があったようです。農作をしない縄文人は食料の供給を完全に自然界に依存していました。何しろ自然が相手ですから、その年の天候次第で供給される食料が大きく変化します。不運が重なる年には餓死の恐れもあります。一方、弥生人が持ち込んだ米は、農業の手間が必要なものの収穫量は比較的安定しており、長年の問題を解決できる夢のソリューションだったのです。しかし、その稲作も関東ではなかなか普及が進みませんでした。関東の土壌は火山灰が降り積もった関東ローム層なので、稲作には向いていなかったのです。関東以北も気候が米の栽培に一致しておらず、しばしの品種改良を待たなければなりませんでした。

その間、西日本は土地の良し悪しからくる農作物の出来具合の差によって身分や貧富が生じ、そこから激しい争いが生まれました。最終的には奈良盆地に急速に権力が集まり、大和王権が成立しました。そして、大和朝廷は中国から律令制を輸入してさらなる勢力の拡大を図ったのです。一方、関東はといいますと、縄文末期の細々とした牧歌的な生活をしておりまして、気づいた頃には西日本に強大な国家が出来上がっていたという始末でした。

律令制度のカラク

大和朝廷と契約を結んで戸籍登録した人は国民として扱われ、朝廷から田んぼを貸し与えてもらえます(契約しない者は人ではありません)。田んぼさえあれば農作業で比較的少ないリスクで生活できるので、恩返しとして朝廷から義務付けられた労働をこなしましょうという話です。

なぜ戸籍を作成するかといえば、国民が逃亡しないように管理するためです。ただし、戸籍には虚偽の記載がつきものですので、顔と名前を付合わせて確認しなければなりません。そのために、稲刈りが始まれば初穂(田んぼで最初についた稲の穂先だけを束にしたもの)を直接中央まで運ばせます。これで戸籍を確認しつつ、穂の出来具合を見て、田んぼの地質や農民の働き具合を調べます。また、穂先だけ持ってくるのではほとんど手ぶらなので、各地の特産品を背負わせてきます。そして絢爛豪華な都を見学させて朝廷の偉大さを国民に教えこむ(地方から上京した人たちが見た法隆寺東大寺の大仏などはどれだけ圧巻だっただろうか)のです 。

さすが、大陸で洗練されてきた格調高い合理的な制度なのですが、それをそのまま日本に適用してもうまく回りません。そこはある程度ローカライズが必要だったことでしょう。そこで庶民向けには建前を用意します。納税の建前は「天皇による祈祷」に対する支払いです。

天皇は神の末裔なので、神と会話する能力を体得しています。ですから、収穫された稲穂を預けておけば、神の力を宿した元気な種子になるように祈祷してくれた上、冬の間に損なうことがないよう丁重に保管してくれて、適切な時期が来れば苗が返ってくる、といった形です。これは合理的に考えれば、稲作の知識が未熟な地方の人たちでも確実に収穫を迎えられるような段取りをつけてくれているということですが、嫌な勘ぐり方をしてしまえば、種の選別や品種改良などの稲作の肝心なノウハウを習得させないように祈祷という形で隠蔽していたともとれます。

東国を襲う律令制

ここからが本題の東国の話になります。西からの強烈な圧迫を受けて「稲作は土地に合わないから今まで通りやらせてください」などとは言えるわけがなく、東国の住民たちも大和に取り込まれていきます。しかし、「祈祷の供物を捧げるために都まで出頭せよ」といった言い分は、天皇の神秘性を信じる地域の人たちには有効であっても、宗教観が違う関東人にとっては「そんなん知らんがな」となるのは当然です。縄文文化を色濃く残した東国の人たちが、朝廷が押しつけてくる納税の理屈に対して反発するのは当然でしょう。
今も昔も庶民の納税感情は変わりません。支払うだけの見返りがあればさしたる抵抗もなく納税されますが、理由のない徴税は抵抗したり、脱税したりします。

そもそも律令制度においては、税とは納めるものであって、支払うものではありません。納めるというのは、自らの意思で納めに行くという意味なので、交通費は納税側の自腹なのです。これが東国にはたまりません。武蔵の国(現在の東京付近)から都までの旅程はなんと片道で29日かかったとのことです。なぜこんなにかかるのか。外海の太平洋を横断するには大型船が必要ですし、東海道を通るにしても、いくつかの大河を越えねばならないのです。そこで、確実な東山道(いちど群馬まで出て、長野、岐阜を通る道)を荷物を背負って徒歩で進んだからです。想像しただけでもかなり険しいルートですね。こんなものを交通費自腹でやらされてはかないません。ちなみに制度的には西日本も同じなのですが、環境面で条件がだいぶ変わります。西日本は瀬戸内海と淀川(む、この時代は平城京だから紀ノ川か)を船で進めば比較的容易に都まで行けます。また、都から北九州のルートは国防の上でも重要なので街道はかなり整備されていました。さらに、大陸からの侵攻を防ぐと言う見返りが期待できるので、利害の上でも落としどころを付けやすかったのでした。

この頃の大和王朝は結構無茶です。わざわざ東国の人を防人にしたり、朝鮮から逃れてきた渡来人を関東に住む合わせたりしたようです。これによって日本という単位で一体感を醸成するのが狙いだったのでしょうが、東国の人たちには不満が残るやり方だったようです。負担なだけなので、住民感情としては朝廷に対して強い反抗心を抱いておりました。そこでボイコットを起こすと懲罰軍がやってくる。そういう流れが平将門の乱鎌倉幕府の成立につながっていくのでした。

始皇帝の操縦テクニック

戦国時代末期に韓非子という天才学者が現れました。始皇帝に密告制度を吹き込んだのも実は彼です。

彼は儒家の中では比較的異端に分類される荀子に学びました。儒家の中で孟子性善説を説いたのに対し、荀子性悪説をときました。儒家としては、人の良い面を伸ばすことで社会を良くしたいので荀子の考えは儒家らしくはありませんでした。韓非子はその荀子に学びながらも、派閥としては法家に当り、しかも著書の中に道家の経典である老子からも思い切った引用するなど、利用できるものは何でも利用するというその姿勢は、まさに異端中の異端でしょう。

法家というのは法治主義者です。今の日本は法治主義なので、法律を守ることは日本人にとっては当たり前ですが、必ずしも法律が全てでは無いのが中華スタンダードです。中華の場合徳治主義というのがありまして、まぁ儒家は主にこれにあたりますが、法律よりも優先するものがあるという考えもあるのです。例えば、儒教では親の恩は絶対なので、親が殺されるようなことがあった場合、子供は速やかに仇討ちせねばなりません。親の無念を晴らすために復讐するのは当たり前なのだから仇討ちによる殺人は違法では無い、といった具合です(愛国無罪も多分同じ理屈です)。韓非子儒家に学びましたが、このような道徳は完全に否定して、法治原理主義とも言える程に法治主義の実現に情熱を燃やしました。始皇帝といえば焚書坑儒ですが、彼が儒家を嫌ったのは儒教の考えが法治主義と一致しないところにあります。

彼は勇気をふるって(彼の理屈では賢者は王様に面会するのは命がけになります)始皇帝に面接を求めましたが、結局採用に至らず。それどころか同窓生の李斯から讒言されて獄中死すると言う不遇な結末でした。しかし始皇帝の政治を見ると韓非子の影響がありありと見られ、採用はしなかったものの、こっそりと韓非子から学んだのだろう、というのが大方の予想です。

人は自分の利益が最も最大になるように行動する。

そう喝破したのは韓非子でした。だから人を操縦するには利益を見せて欲望を刺激するのが1番です。ですが、韓非子が言うには、これだけでは足りません。甘い言葉だけでは動かさない者もいるからです。このような連中には罰で脅せというのが韓非子流の操縦テクニックです。これを韓非子は「信賞必罰」という4字熟語にしました。

利益を見せ付けて優しく誘導し、それに従わないなら容赦なく処罰する。いわゆるヤクザのやり口ですね。戻れば損、進めば得、となれば誰もが進むのが人情です。こうやって否応なしに人々を自分が望むような競争のレールに乗せるのが始皇帝の操縦テクニックです。

では操縦されないためにはどうすれば良いのでしょう?
それは欲望に踊らされず刑罰も恐れず操縦者の誘いを蹴飛ばして山にこもってひとりで暮らすことです。こういう者は支配者にとって要注意です。こんな人が増えるとやがては民衆全体が支配者のコントロール範囲内から離れてしまうので、速やかに処分しなければなりません。

まぁ、悪いやつらの手口とはだいたいこんなもんです。そういえば、日本のどこかのリーダーに法律家出身で信賞必罰が大好きで、公務員を痛めつけることで人気を取っている人がいましたね。法律を勉強したインテリなら『韓非子』くらいは読んでいるんだろうな。いや、その割にはこちらに進みなさいという褒美を示さないので、ちょっと違うのかな。

白川静でDQNを理解する

人間が一皮剥けばチンパンジーである事は、注意深い人なら誰でも知っていると思います。人類は長い時間をかけて着実に進歩してきました。その中でも知性と理性で築き上げた文明は、人類に大きな発展をもたらしました。しかし、その高度な文明も人類の長い歴史から見ればせいぜい数千年、ほんの薄い皮1枚です。ささいなことで破れて古い時代の記憶がむき出しになります。世の中には好む好まざるにかかわらず、皮が破れて生を受けてしまった方々もいらっしゃいまして、彼らはこの現代であっても法律や理屈よりも、(直感的ではあるが)眉をひそめてしまうような野蛮な私刑を好む傾向にあります。

例えば、根性焼き、もう少し古い言い方だと「焼きを入れる」などもその一例です。根性焼きの歴史は意外と古く、3000年程度は遡れます。むしろ、当時ではこちらのほうが主流の考え方でした。なぜそれがわかるかといえば焼きを入れている絵が文字になっているのです。


「赦」という文字は、左側が「人+火」で右側は「ト+又(棒を持った手)」です。つまり、火のついた棒を人に押し当てている絵です。今で言う根性焼きですね。当時は、これをもって罪が赦されたということです。

未開の連中はまぁ残虐なこと!と安直に想像しがちですが、古代人は残酷と同時に優しくもあります。白川静が言うには、この行為は我々が嫌悪するような苦痛を与えることを目的とした刑罰ではなく、体についた悪霊を追い払うための処置なのです。この辺ちょっとうろ覚えなのでいまいち正確な情報ではありませんが、当時の人々は悪い奴だから犯罪をするのではなく、元は善人なのだが、たまたま悪霊が憑依して心が乗っ取られているうちにしでかしてしまった(今で言う魔が差す)と考えたのです。そこで悪霊がついた部分に火を押し当ててそれを体から追い出します。太古の時代はまだまだ人口が少なく生活も部族(血族)で暮らしていました。つまり、犯罪者といっても顔見知りどころか親戚なので腹いせに苦痛を与えたところで関係が悪化するだけで更生が期待できるわけは無いのです。ほかに直感的でメジャーな刑罰には顔に刺青をするなどがありますが、これも同様で、苦痛を与えたり、前科者を見分けるために施した訳ではないそうで、二度と悪霊が取りつかないように護りの呪文を体に直接描いたのだそうです。このように再犯しないような処置を施すことと引き替えに罪が赦されたのです。


あれ、古代人案外思慮深いぞ…

根性焼きの意味を調べてみると、ここで使われる意味とは微妙に異なってますね…

水からの無言

科学の皮を被ったオカルトを教育の場に持ってくるのはおかしい

水からの伝言」という話が随分前に問題になりました。かなり騒がれたのでご存じの方も多いと思いますが、軽く内容に触れますと

コップに入った水に罵詈雑言を浴びせ掛けると腐ってしまうが、ありがとうと言い続けると水が結晶を結び、ありがとうと返してくれる。

といった感じです。こんなオカルトを誰が信じるんだよって話ですが、科学的リテラシーとか言うものを備えていない先生が話の美しさに惹かれて熱が入ったんでしょうね。おそらくそういう先生たちも内心は嘘だとうすうす気づいていたんでしょうが、こんな反発があるとは想像もしないまま導入して、突然外野から頭ごなしに「科学とは… XX… △ △ 」なんて言われて、引くに引けなくなったんでしょう。

科学に疎い大人は、これまでの人生で何度も科学を教えられて、それでも科学と仲良くなれなかったのです。そういう自覚がある人に対して「科学とはこれこれこういうことだから、あなたの言っていることは間違っている」と説明をしたところで「お前は馬鹿だ」と言っているようなものですから聞き入れてくれるはずはありません。



老子には「上善如水」という話があります。

http://d.hatena.ne.jp/yasushiito/20101008/1286463600

上善は水の若し。水は善く万物を利しても争わず。
衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。

どうして水が素晴らしいのか。その理由は、誰もが生きるために必要なものなのに、不平も言わず、分け隔てなく、黙って利用されていくからです。もし、水が相手の言葉や態度で対応を変えるのなら、人間は常に水に遠慮して生きなければなりません。

  • 夏の暑い昼下がりに喉が渇いて水を飲みたくなっても「君はまだ宿題が終わってないじゃないか。そんな子になんか飲まれたくない! 」なんて言われたら、誰だって嫌な気持ちになりますし、こんなことを毎日言われては水のことが嫌いになるでしょう。
  • トイレを済ませた後に水で流そうとしても「そんな汚いところに流されたら僕はよごれちゃうじゃないか。やめてくれよ。 」と言われたらレバーを引きにくいです。それでも水で流したら「お前が汚したものを流してやったんだからな。感謝しろよ。 」と恩を着せられてしまいます。
  • 「この国の偉い人は嘘ばっかりつくから嫌いだ」と言って雨が降って来なかったら、人は皆、水に嫌われないように生きていかなければなりません。

嘘をつかず、宿題もきちんとして、感謝の心を忘れない、それ自体は大変素敵な生き方ですが、水に見張られているからそれをするようではちっとも素敵ではありません。こんな窮屈な世界だったら、人は果たして水を素晴らしいと讃えるでしょうか?水は何も言わないからこそすばらしいのです。だから水はありがとうといっても喜びませんし、バカヤローと言っても怒りません。

水が素晴らしいのは、誰もが生きるために必要なものなのに、不平も言わず、分け隔てなく、黙って利用されていくからです。


私ですか?
行楽を予定していた日に雨が降ると「日ごろの行いが悪い」 「雨に祟られた」という程度には信心深いです。科学リテラシー?なにそれおいしいの?

企業春秋

近頃ではグローバルに活躍できるプレイヤーがもてはやされているようで、英語に重点を置く企業が多いようです。記憶にある所では、楽天が社内公用語を英語にすると発表したり(いつの話だよ)、ソフトバンクTOEICで一定件数をクリアした場合にボーナスを100万円支払う制度を設けたりしているようです。どの社長も生き残りをかけてユニークな決断をしているようですね。民主主義が当然になった日本では王様などは絶滅した存在のように思えますが、社長というのは王様に近い存在なのではないでしょうか。

これまた例のごとく、中国古典を紐解きますが、やはり生き残り競争が厳しくなった時代にはユニークな制度が産まれています。


魏という国に李恢と言う長官がいました。魏は強国の秦ととなり合っていたため、李恢が赴任した城は治めるのが大変難しい土地でした。「戦に勝つには射撃の腕が重要だ」そう考えた李恢は、兵士となる庶民が効率よく弓術の技術を上達させる手段はないかを模索しました。そこで採用したのが「白黒つけがたく、裁判が長期化しそうな案件については、弓の当たり外れで勝敗をつける」という制度でした。この制度が施行されるや庶民たちはこぞって弓を練習しました。やがて秦が攻めてきましたが、射撃力が勝っている魏が勝利しました。

なんかうまいこと考えたこと考えたぽいですが裁判を弓で決着するなんて、ずいぶん強引な方法です。ここは理解に苦しむので少し補足しますと、「弓矢には魔力がこもっているので、時として天意が宿る」と考えるだけの説得力があったのです(たぶん)。この当時はまだまだ人間の力が及ばない「神秘」を信じて従う気持ちが残っていたのですね。

このほかにも、神秘によって判決を下す例はありました。羊の体を刃物で傷つけて暴れない羊を連れてきた方が勝訴すると言う裁き方です。心の清らかなものが連れてきた羊ならおとなしくしているはずだという理屈です。下のページにありますが詳しいやり方は『墨子』にあるようです。

http://www.hitsuzi.jp/news/2006/10/736sheep.html

私が聞いた伝承とは少し違うので『韓非子』にも孫引されているのかもしれません。 (たしか裁判を始める前に羊が暴れだし、連れてきたものを蹴飛ばして足を骨折させたので、もう裁判の必要すらない判決は出たようなものだろうという空気になって裁判すら開かれなかったという話だった)

やっぱり、訳わからんですね。ランダムに人生をかけるのは恐ろしいですが、ある意味平等なので負けたとしても納得するよりないのです。