第十章 生ずるも有とせず、為すも恃まず、長ずるも宰たらず。
原文
載營魄抱一、能無離乎。專氣致柔、能嬰兒乎。滌除玄覽、能無疵乎。
愛民治國、能無知乎。天門開闔、能爲雌乎。明白四達、能無知乎。
生之畜之、生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
訓み下し文
営魄を載せ、一を抱きて、能く離れること無からん乎。
気を専らにし、柔を致して、能く嬰児たらん乎。
玄覧を滌除して、能く疵無からん乎。
民を愛し国を治めて、能く知られること無からん乎。
天門開闔して、能く雌為らん乎。
明白四達して、能く知ること無からん乎。
之を生じ之を蓄い、生ずるも有とせず、為すも恃まず、長ずるも宰たらず。
是を玄徳と謂う。
解釈
活動する魂を陰に集中して体に乗せて一つにして、しっかり離さないでいられるか。
生気を柔らかくなるまで練り込んで、赤ちゃんのようにいられるか。
神秘の鏡を磨いて、過ちがないようにしていられるか。
民を愛して国を治めながらも、知られないでいられるか。
頭を空っぽに開放して、雌のように受け身でいられるか。
隅々まで深く知り得ながらも、なにも知らないようにしていられるか。
これに取り組み、大きく育て、できるようになってもまだまだ未熟だと気を引き締め、成功しても見返りをもとめず、リーダーなのに仕切らないでいる。これを奥深い徳という。
備考
道を目指す者が自身をチェックするための章。玄徳の習得が目的。
大抵の経典は「ああしろ、こうしろ、あれダメ、これダメ」なんだが、老子にはあんまりそういうのはない。悪い例があっても「良くないね、ひどいね」ってところで終わる。それで済まないのは、せいぜい第三十章くらい。
この章も「しないでいられるか」って、とにかく無為。そして、相手任せ。やるべきことは赤ちゃんになるくらいか。
で、玄徳って何じゃいって話だが、道の一段下に徳があって、玄徳はかなり道に近いところの徳である。詳しくは徳についてに任せるが、簡単に言えば「徳」は強い者が弱者の味方をすれば備わるもの。徳があれば慕われて人が集まってくるが、そこで王様ヅラしないで愛してやれば玄徳が備わる。ここまで行けば道とほぼ同じといったところか。
この章の構成は三段。
前段では自分の心のあり方を説いている。心技体の統一、呼吸の調和、自己批判の徹底。
中段では人との関係の持ち方を説いている。人を愛して、意見をよく受け入れて、民のための政治をする。
後段では、これに精進しろと説いている。
ヒント
玄徳(げんとく)
深い徳。→徳について
嬰兒(えいじ)
嬰児。赤ちゃん。
明白(めいはく)
開闔(かいこう)
扉を開くこと。
開閉という説もある。
天門(てんもん)
滌除(できじょ)
洗い清める。
營魄(えいはく)
活動する魂。
営がよくわからない。動く物っぽいが…。あるいは営門?
営門なら、魂魄の内側に精神があって、そこに入るための門前に魄が燃えてるのかな?
魂魄は陰陽に別れているので、魂には今で言う交感神経と副交感神経みたいな作用のことを言うのかもしれない。この切り替わりを営としているのだろうか。わからないので、こっちの活動としておいた。
玄覽(げんらん)
營(エイ)
営の旧字。
いとなむ。活動する。
宮殿の前のかがり火で、これが灯っている間は政務中だったから営むという意味になったようだ。
魄(ハク)
日本で言う魂。
中国では魂魄といって、どちらも日本でいう魂のこと。厳密には魂と魄は少し違うらしい。
詳しくは調べられなかったが、魂は陽の気を持つ魂と、陰の気を持つ魄が一体となったもののようだ。人体が死ぬと魂は天国に行ってしまうが、魄は地上に永遠に残るようだ。鬼などの悪霊の類は魄なのかも。
一(いち)
專(もっぱ-ら)
専の旧字。
一つにする。
袋に入れて手でこねて叩いて団子にする。団の旧字は團で中に專が入っている。
氣(キ)
気の旧字。
精神から放たれる力。気力。元気。
疵(し)
疵(きず)。人体などにつく傷ではなく、欠点や過失のこと。
文字(47種/69字)
無 天 之 有 而 謂 玄 門 知 爲 不 生 長 是 恃 民 治 乎 能 載 營 魄 抱 一 離 專 氣 致 柔 嬰 兒 滌 除 覽 疵 愛 開 闔 雌 明 白 四 達 畜 宰 徳 國
ルビ無版下し文(コピペ用)
気を専らにし、柔を致して、能く嬰児たらん乎。
玄覧を滌除して、能く疵無からん乎。
民を愛し国を治めて、能く知られること無からん乎。
天門開闔して、能く雌為らん乎。
明白四達して、能く知ること無からん乎。
之を生じ之を蓄い、生ずるも有とせず、為すも恃まず、長ずるも宰たらず。
是を玄徳と謂う。