第五十三章 大道は甚だ夷なれども、民は径を好む。

原文

使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。
朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。
是謂盗夸。非道哉。

訓み下し文

(われ)をして介然(かいぜん)として()ること()らしむ。大道(たいどう)()くに、(ただ)(うつ)る、(これ)(おそ)る。
大道(たいどう)(はなは)(たいら)なれども、(たみ)(こみち)(この)む。
(ちょう)(はなは)(ととの)えば、()(はなは)()れ、(くら)(はなは)(むな)し。文綵(ぶんさい)(ふく)し、利剣(りけん)()び、飲食(いんしょく)()き、財貨(ざいか)(あま)()り。(これ)盗夸(とうか)()う。非道(ひどう)なる(かな)

解釈

孤立してしまった私が人とは違う場所から世間を見て知ったことがある。大いなる道を行くときに気移りしてしまう。ただ、これだけが怖い。正道は平坦であるのに、世間の人はわざわざけもの道を通りたがる。

王朝をないがしろにして勝手に兵を動員するから、田畑は荒れ、食料庫はからっぽになる。そのくせ、きらびやかな服を着て、立派な刀を腰に帯び、飽きるほど飲み食いして、有り余る金品を溜め込んでいる。

これを盗人の親玉と言うのだ。なんと道から外れたことか。

備考

人の心の弱さを指摘する趣き深い章。

小市民たるもの、自分が正解だという自信があっても一人だと不安なものだ。ましてや他人が集団で別の道をいけば釣られて心変わりするかもしれない。

ところで、批判の対象は前半が民なのに、後半は貴族なんである。これは貴族の前で披露して「そうだ、そうだ近頃の民はけしからん」と同意を取らせ、後半でギャフンと言わせるトリックだろう。老子に言わせれば、王以外はみんな民なのかもしれない。

使我介然有知
大道を歩いていたら、気がついたときには自分一人だった。振り返ると大勢の人が集まって何かをしている。それで自分が強い意志を持って道を歩いていることと、人々の誤りを知った。

行於大道、唯施是畏。
一人は心細い。道を行く時、人々の誘いに負けて気が変わってしまうことだけを警戒している。
施は現代ではほどこすという意味だが、それでは通りづらいか。一般的には「ななめ」と読み下すようで、邪道に行ってしまうことを意味するようだ。
ここでは気移りと読んだが、その真意は「有効な行いを実施してしまう」こととしたい。

大道甚夷、而民好徑。
大道は山道のようにつづら折りで遠回りだが、なだらかで歩きやすい。それなのに人々は近いからと言って、けもの道を通ろうとする。第四十一章には「夷道若纇」とある。こちらは平らな道をらせん状にたとえている。

朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。
周王朝をないがしろにして、田畑を荒らし、納税をサボって蔵を空にする。まったく民といったら狡猾な連中だ。そう読める。しかし、後の文を読むと批判は民ではなく、諸侯だとわかる。周王朝をないがしろにしているのは諸侯で、内政も朝貢もしないで勝手に争って国財を食いつぶしている。
普遍的には「除」を除霊の儀式と読んで、王朝が過剰なほど綺麗になる様子とする。礼や儀式だけが立派になって、宮殿も建って道が掃き清められているのに、大切な庶民がいない。圧政の中ではありがちな構図である。現代の我々はそう解釈した方がありがたみがあるが、元は諸侯批判だろう。

服文綵、帶利劔
これらが許されるのは上層階級だけ。

是謂盗夸。非道哉。
盗夸はただの盗人ではなく、その親玉を言うようだ。

ヒント


利劔(りけん)

よく切れる剣。

文綵(ぶんさい)

模様が入った美しい服。

盗夸(とうか)

盗賊行為をおおっぴらに見せてそそのかす。

介然(かいぜん)

人とは違う隔てられた場所から人々を見る。


使(し)

〜させる。(命令形)AをしてB(せ) しむ(使む) 。
使う。

(イ)

たいら。凹凸がない様子。

(おそ-れる)

おじけづく。怖がる。
かしこまる。

(シ)

実施する。
軍を別の場所に移すこと。そこから行動に移すことが実施することになったか?

(ケイ)

径の旧字。こみち。けもの道。
近いけれど険しくて歩きづらい道。

(あ-れる)

雑草が生い茂って荒れること。

(サイ)

あやぎぬ。綺麗な布。

(おび)

腰に巻く帯。そこに道具を通して持ち歩く。

(いや)

いやがる。いやになる。飽きる。
おさえる。壓が圧の旧字。圧えるに通じる。

ルビ無版下し文(コピペ用)

我をして介然として知ること有らしむ。大道を行くに、唯施る、是畏る。
大道は甚だ夷なれども、民は径を好む。
朝甚だ除えば、田甚だ蕪れ、倉甚だ虚し。文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨に余り有り。是を盗夸と謂う。非道なる哉。